世の中で一番グロが嫌いな私が『ウォーキング・デッド』を見たら。

HOSHI フリーライター

1990年生まれ。Webメディアで編集者をしながら、個人でライター活動を行う。初めての海外ドラマ、楽しみながらどんどん書きます。他活動はTwitterにて↓

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その出会いは突然に

 

私は、グロが大嫌いだ。

小さい頃から救いようのないビビりで、お化けとグロテスクなものはことごとく目に見える場所から排除してきた。

 

 

理科室の人体模型とは一度も向き合えたことがないし、今だって向き合える気がしない。

テレビで流れる「人体の不思議展」のCMを見ただけでハッと息が詰まったようになるし、

怖い映像や本を偶然見てしまった日にはいつも夜眠れなくなった。

 

血はだめ、骨はだめ、筋肉もだめ。

自分も人体を持つニンゲンという生き物であるのに、自分の体の中に肉や骨があるのが信じられない。

 

うっかり包丁で指を切れば、血を見た瞬間に全身の力が抜け、人に絆創膏を貼ってもらいながら自分がもう26歳であることに気づく。

そんな、どうしようもないビビりである。

 

 

あるとき自分に、とんでもない仕事が舞い込んできた。

「星さん、『ウォーキング・デッド』について書いてくれませんか?」

 

ドラマ『ウォーキング・デッド』の存在は私でも知っていた。

ゾンビ、グロ、ホラー。

私が嫌悪する3つの要素が素晴らしく盛り込んであり、どうやら人々を魅了しているらしい。

 

私の人生には必要のないもの、できるなら、一生関わらないでいたい分野だ。

 

「すみません、書けません。」

 

正直に言った。するとその方は一言、

 

「グロがダメなんですか?じゃあ観てください。」

 

世の中で一番グロが嫌いな私は、『ウォーキング・デッド』のコラムを書くことになった。

 

 

 

“ゾンビドラマ”・・・?

 


ウォーキング・デッド公式Instagramアカウント(@amcthewalkingdead)より
“ウォーキング・デッド”。

まさに “歩く死体”

 

物語は保安官である主人公リックが、まるで廃墟のようになった街で少女と遭遇することから始まる。

リックが心配して声をかけると、振り向いた少女はすでにもうゾンビ(ウォーカー)になっていた。

 

襲ってくる少女。

リックは容赦なく彼女の脳天を拳銃で撃つ。

 

撃ったあとの、彼の悲しく悼むような表情がとても印象的だった。

ゾンビであれ、保安官である彼にとって人を撃つことはとても苦しいことなのだ。

 

その一瞬の表情ひとつで、

「これはただ人がゲームのようにゾンビを倒す物語ではない」

と私は悟った。開始から、ものの3分。

 

そう、『ウォーキング・デッド』の素晴らしいところは、出てくる人物一人ひとりの感情が、その表情ひとつで読み取れるところにある。

物語はとてもスピーディーに進んでいくのだが、そこにいる人物の気持ちが手に取るように分かり、あっという間に共感してしまうのだ。

 


ウォーキング・デッド公式Instagramアカウント(@amcthewalkingdead)より
2話目まで見終わったとき、物語の中に勝手に吸い込まれた私は、ものすごく疲れていた。

苦手なグロい描写、容赦なく与えられる恐怖の演出に怯えていた。

 

もしかしたら、ここにもゾンビが来るんじゃないか?

大の大人が本気でそんな風に思って、開けっ放しにしていた部屋の扉をしっかり閉めてからドラマの続きを見る。

 

 

その後も“ゾンビドラマ”に、

毎秒私は共感した。

 

つかの間の喜びや生きる希望、変わらぬ状況への絶望、時には一緒に焦ってハラハラし、信用できない相手を恨み…

極限の状況下で揺れ動く人々の心情があまりに繊細で、胸が締め付けられるように悲しくもなっていた。

 

なんて残酷な世界なのだ。

気付けばもう、私は声を出してボロボロに泣いていた。

 

 

苦渋の選択

 

悲しいことに、ゾンビ一体一体はその街で昨日まで生きていた人々だった。

血や肉に飢えたゾンビたちが生きた人間を襲い、一度でも噛まれた人はあっという間にゾンビになっていく。

 

急所である脳を潰さなければ倒すことはできないのだが、

たとえゾンビだとしても大切な人の体を自分の手で傷つけることができない人々は、ゾンビになってしまった家族や恋人たちを野放しにしてしまう。

ゆくゆくは自分も殺される。そうしてまた、街にゾンビが増えていくのであった。

 

私は心底同情した。

もしも亡くなった家族がゾンビとなって街を彷徨っているとしたら…

会いたくてしょうがない相手なら、たとえ姿が変わっても愛しく思うのは当然ではないだろうか。

 

 


ウォーキング・デッド公式Instagramアカウント(@amcthewalkingdead)より
ドラマの中では、何度も決断を迫られる。

 

もし自分の家族が目の前でゾンビに襲われてしまったら。

見捨てて逃げなければ自分は助からないとしたら。

生きるために家族の死体を傷つけなければならないとしたら。

 

そこにはゾンビの数だけ、悲しい物語があった。

 

見た目はグロテスクだけど、すべて昨日まで誰かに愛されていたはずの人なのである。

いつの間にか私は、物語の中のグロさや恐怖感を少しだけ受け入れられるようになっていた。

 

 

いつもの日常

 

すべて見終わったあと、マンションのカーテンを開けてみた。

道を歩く人と車が見える。大丈夫。ゾンビはいない。

 

勇気を振り絞ってコンビニへ行く。

いつもの店員さんが笑顔で挨拶をしてくれた。

大丈夫、ゾンビはいない。すごくすごく、ありがたいことのように思えた。

 

生きていればたまにこの世界がどうしようもなくくすんで見えることがある。

それでもさっきまで画面の中で広がっていた景色より、

日常生活は何百倍もマシだった。

 

 

頭に焼き付いた悲しきゾンビたちの顔を思い浮かべて眠りにつく。

翌日起きたらまた、いつもの日常が待っていた。

 

SNSのフォロワーが1人減ってはへこむ。

営業のメールを無視されてはへこむ。

書いた記事がつまらないと言われてはへこむ。

 

本当にちっぽけな悩みを持った、どうしようもなくビビりの、いつもの私だ。

 

 

 

私たちはしばしば非現実を見て現実と向き合う。

 

映画を見る、

お化け屋敷に行く、

怪談話をする、

ジェットコースターに乗る、

高い場所へ行く。

 

そういった場所がなければ、現実世界の平和さに気づくことはできない。

毎日生きていることに感謝、なんて祈りを捧げられるほど私は出来た人間じゃないから。

 

悲惨なニュースを見て心を痛め、テレビや映画で悲しい物語に触れては自分と重ね、衝撃を受け、反省し、そしてまた日常へと戻っていく。

そうでなければ、大切な人と過ごせる時間の重さに気づくことができないのだ。

人は忘れる生き物だから。

 

 

『こんなゾンビの世界にいるよりはずっと幸せ』

 

そんな風に思った。

 

そんな生きている安心感を得るためにまた、わたしは『ウォーキング・デッド』に触れるのだろうか。

 

 

 

 

HOSHI(ほし)

1990年生まれ。Webメディアの編集者をしながら、個人でライター業を行う。主な活動は取材・コラム・エッセイなど。日常の気づきを綴った『note』が人気。

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